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グリース・ガン

■SHORT ROUNDS −戦史小ネタ集−:Weapons Backdate... グリース・ガン 「M3サブマシンガンの内部構造」

▲M3サブマシンガンの内部構造

多くの戦争同様、第二次世界大戦によって、短期間の研究開発で実用的な兵器が生み出された。短い時間で、限られた資源を用いて、その需要が高まるというのであれば、必然的に大量生産となってコストは下がり、費用対効果の高い兵器になっていく。その好例が、「グリース・ガン」といういささか小馬鹿にされたような愛称を持つ、米軍のM3サブマシンガンである。

 

1942年、米陸軍は武器庫を満たすことに躍起となった。そしてその間、軍需品部は戦場でサブマシンガンを望む声が高まっていることに気づく。

 

戦前、米軍の標準的な携帯自動火器は1932年に採用されたトンプソンM1928A1だった。イギリス軍の特殊部隊も使用した優秀な火器だったが、製造コストが高く、アメリカが参戦した時点でごくわずかしか存在していなかった。トンプソンの簡易版も生産され始めたが、とても需要を満たすことはできなかった。

 

トンプソンの不足を埋める方法を見つけるため、軍需品部は鹵獲したドイツ軍のMP38、ベルグマン34など外国製を含む、20以上の火器をテストした。その結果、軍需品部はイギリス製のステン・ガンとドイツ製のシュマイザーに倣った、新しいサブマシンガンを独自開発することを決めた。

 

M3機関銃はヨーロッパ式の製造手順を取り入れた、米軍最初の火器となった。鋼板をプレスして筒状に丸め、半円状にしたものを溶接で貼り合わせる。米国内の工場で広く使われている設備で製造できることが前提だったため、短期間での大量生産が可能になった。

 

M3は空冷、ブローバック式で、銃底から30発入りの弾倉を装填する。ボルトは2本のスティール・ロッドの上をスムーズに動く。バネ式の排莢口カバーは、閉じている時は安全装置として機能するだけではなく、埃よけとしても機能した。

 

M3は、操作が簡単で製造が簡易なだけではない:極めて有効な兵器でもあった。ドイツ製のサブマシンガンほど洗練されてはいなかったが、イギリス製のステン・ガンに比べれば、はるかに丁寧な作りだった。効率化のために美観は犠牲にされたが、結果的に軍需品部は見た目は悪いが取り回しの良い兵器を開発することに成功したのである。

 

弾倉なしで、重量はわずか8ポンド(3.6キログラム)。トンプソンよりも1.5ポンド(680グラム)軽い。ストックを一杯に伸ばしても、8インチの銃身を含めて29.8インチ(75.7センチメートル)と小型だ(ストックなしなら22.8インチ=57.9センチメートル)。ストックは一本のスチール・ロッドでできており、先端はクリーニング・ロッドとしても使えるよう工夫されている。銃の全てのパーツには意味があり──不要なパーツは一つもないのだ。

 

M3の口径はトンプソンと同じ──0.45インチ──だが、発射速度は低く、毎分350-450発だった。毎分700発というトンプソンの発射速度のおよそ半分だが、これは銃身が吹き飛んでしまうという──サブマシンガンが抱える問題を抑えるためだった。また発射速度の遅さは、フルオート/セミオートを射撃システムにわざわざ組み込む必要がないという利点になった。M3は常にフルオートだが、一瞬だけ引き金を引くことでセミオート的に射撃できたのである。

 

正式採用が決まったのは1942年12月24日だが、M3が戦場に支給されるようになったのは翌年の夏からである。一部の部品の破損を防ぐため、半年かけて小改善が行われたのだった。

 

陸軍は、兵士たちはM3を喜んで使うだろうと想定していた。それは、このサブマシンガンが一般的な戦闘の状況に適切であると思われたからだ:空挺兵にとっては軽量であり、戦車兵にとってはコンパクトであり、歩兵は拳銃のように軽々と扱え、レジスタンスにとっては隠しやすい武器なのだ。しかし新兵器は、トンプソン・ガンに絶大な信頼を寄せるベテラン兵士から、さして歓迎されなかった。

 

M3を手にした兵士たちは、別のものを期待していたのだ。彼らは美しく仕上げられ、均整の取れたトンプソンと、大雑把で無骨なM3を比較した。新しい火器の有効性が明らかになっても、兵士たちはトンプソンを持ちたがった。「GIのげっぷ銃」「ケーキ・デコレーター」そして「グリース・ガン」という侮蔑的な愛称をつけられることとなったその外観も、M3の評価を低くしていた。結局、M3は最後まで愛称で呼ばれることとなった。「グリース・ガン」の誕生である。

 

1944年4月、M3にはさらなる改良が加えられた。現場でなければ発覚しなかった問題点を改善するためである。これらの変更が加えられた新しいバージョンがM3A1である。最も大きな変更は、コッキング・レバーを省略したことである。乱暴に扱うと外れてしまいやすかったためで、ボルトに凹みをつけて初弾装填時に指で動かすように変更した。

 

その他の小改善により、M3A1の完成度は高まった。排莢口とカバーはスプリングが強化され、より長く、より大きくなった。オイラー・クリップは外装から外され、ピストル・グリップの内側により大きなオイル缶を装着できるようになった。一般分解がより簡単になり、ワイヤ・グリップはより多目的に──レンチ、カートリッジ・ローダー、クリーニング・ロッドとして使えるようになった。

 

M3とM3A1は米兵によってだけではなく、秘密作戦あるいは敵戦線背後で活動するヨーロッパのレジスタンスに使われることを想定して開発されていた。そのため、グリース・ガンはバレルとボルトを変更し、マガジン・アダプターを装着することで9mmパラベラム弾を使うことができた──ドイツ軍及びそれ以外のヨーロッパの国々で一般的に使われた弾薬である。OSSのエージェントのため、数千丁の9mmグリース・ガンが投下された。そのうちの1000丁のM3A1にはバレルにサイレンサーが取り付けられていた。

 

第二次大戦中、ゼネラル・モータース社はM3とM3A1合わせて64万6000丁以上を製造した。当時、そのどちらの兵器も正当な評価を受けたとは言い難い。M3は既に評価が定着していたトンプソンと比較されてしまったし、M3Aは戦場に姿を現すのが遅すぎた。

 

戦後になって曲がり角や戦車のターレット・ハッチからM3A1を撃てる曲射銃身が設計された(似たようなものが大戦末期にドイツ軍で開発され、実際に使用された)。両モデルに対し、フラッシュ・サプレッサーも開発された。

 

1950年、朝鮮戦争の勃発に伴い、グリース・ガンの製造が再開された。現存していたグリース・ガンを補うため、約3万3,200丁のM3A1がイサカ・ガン・カンパニーで製造された。陸軍は1957年にグリース・ガンの退役を決めたが、予備隊、州兵隊ではそれから数年間、使用された。

 

60年代前半、グリース・ガンはベトナムで三度目の戦争に使われることになった。M1ガーランド、M1カービン、そしてトンプソン・サブマシンガンとともに、グリース・ガンは東南アジアにおける初期の米軍武器庫を彩った。これらの武器は後にベトナム共和国軍に与えられたが、多くのグリース・ガンがベトコンの手に渡っている。

 

第二次大戦中から、他の国々でもM3、M3A1のコピーが製造されている。中国国民党は0.45口径と9mmバージョンの両方を製造したし、ポルトガルはドイツ軍のMP40の長所を取り入れたグリース・ガンを生産した。

 

グリース・ガンがつくられた半世紀以上が経過したが、長らくこの兵器は正当な評価を受けることがなかった。しかし今は、M3とM3A1が、簡素で無骨ではあるが、使いやすく優れた兵器であったことが知られている──そして陸軍は、この兵器をまさに必要としていたのである。戦争の要求から生まれたM3/M3A1サブマシンガンは、その不適切な評価を乗り越え、第二次大戦における優れた兵器の一つとして、その地位を確立したのだった。

 

──John Richard DeRose