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After the Fact...


「砂漠の嵐作戦」空爆調査委員会

最近(記事掲載当時、1994年)発表された連邦議会の報告書によると、湾岸戦争直後、スパイ機が撮影した写真を分析したところ、同戦争におけるイラク軍の3個共和国警護師団に対する空爆戦果は過大に報告されたものだったと結論づけられた:「分析に関する問題の核は……戦術的戦場損害調査(BDA)──地上戦が開始される前に実行された空爆によって破壊されたイラク軍戦車、装甲兵員輸送車、砲兵の数え方にある。これは情報部門の砂漠の嵐作戦における、最大の挑戦であり、最大の失敗だった」

 

BDAが過大だったとしても、1991年2月24-28日に行われた多国籍軍による地上戦に先立って実行された空爆は、イラク陸軍を充分に痛めつけた。米中央司令部(CENTCOM)の指揮官は「イラク陸軍を撃破するのに50%の損耗率が必要だと考えていた」と報告書にある。「しかし実際は、その要求にはるかに満たないものだった」報告書は将来の戦争について「こうした情報誤認が、いつも寛容されるとは限らない」と警鐘を鳴らしている。不正確なBDAに基づき米軍地上部隊が攻勢を開始したら、「好ましくない奇襲を受ける恐れがあるのだ」

 

調査委員長である共和党のノーマン・シシスキー(バージニア州)は記者会見でこう述べた。「はっきりしている我々の問題点の一つは、軍情報部が装備に対する損害の数え方を知らないという、単にそれだけのことだ。6週間に及ぶ空爆の間、どうにか正確性を高めようと何度もその方法が変更されたが──が、戦後の分析によって、あまりに実際とかけ離れた結果だった。どうやってBDAを行うかを教えてくれるハウツー本はない。我々は自分たちで書き下ろさなければならないのだ」

 

砂漠の嵐作戦の空爆におけるBDAの不正確さに関して、米国のニュース・メディアが飛びつき、大激論となった。論争の一方の側はCENTCOM司令官H・ノーマン・シュワルツコフ将軍とその情報部門の将兵、他方は「ワシントン情報コミュニティ」と呼ばれる面々と、それを率いる組織、中央情報局(CIA)だった。

 

1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻後、CENTCOMはイラク軍の精鋭部隊である共和国警護師団と、優れた装備を誇る砲兵隊(及び化学兵器弾頭)を二つの重大な脅威と見なすようになった。空爆で撃ち漏らしたイラク軍部隊は地上戦によって排除する必要があるため、シュワルツコフはクウェート作戦域における米陸軍情報部の上級部隊であるARCENT G-2にBDAを行うよう命じた。

 

平坦な砂漠の戦場は写真偵察と分析に適した地形のように思える。しかし砂漠の盾作戦は砂漠の嵐作戦に、予想外の問題をもたらすこととなった。

 

1991年になると、イラクは14年ぶりとなる、厚い雲に覆われた。悪天候のため、米軍の偵察は混乱し、また遅延した。

 

なお悪いことに、1991年のペンタゴンの報告によれば、BDAは「内部は破壊されていても外装の被害を最小限に抑える精密誘導爆撃のため、複雑なものになった」イラク軍の装甲車両は、実際は撃破されていたのに──乗員は死亡し、車両内部は破壊されていたのに──見た目の被害が小さかったため、繰り返し攻撃されたことがあった。BDAは、砲塔が吹き飛ぶか燃料、弾薬に引火して爆発するという「壊滅的な損害」を与えた時のみ確実なものとなった。また連邦議会の1992年の報告書「湾岸戦争教書」によれば、充分な数の戦術偵察機が揃わなかったため、BDAはより困難なものになったという(あるCENTOCOMの情報高級将校は、冷戦後に退役したSR-71高々度ジェット偵察機の不在を嘆いた)。

 

ARCENT G-2は戦果確認のため、偵察衛星、偵察機が撮影した写真、ガンカメラのフィルム、パイロットの戦闘報告を用いた。本国では、CIAと国防情報局(DIA)のアナリストたちが衛星写真を基に分析した。結果:CENTCOMの撃破数は、時として米国内で数えた数字の2倍以上になることがあった。

 

『Triumph Without Victory』(US News and World Report、1992年)によれば「爆撃から4週間後の(1991年)2月14日までに、空爆により1300両の戦車を破壊したとシュワルツコフの参謀は述べた」という。「しかしCIAとDIAのアナリストは、500-600両の戦車を撃破しただけだと分析している……(CIAとペンタゴンの)アナリストはまた、中央司令部は、どの目標カテゴリーにおいても、シュワルツコフが試算した50%の損耗率という目標に達していないと指摘した」

 

1992年に出版した自伝『It Doesn't Take A Hero』の中で、最近(1994年当時)退役したシュワルツコフはワシントンの情報部、特にCIAをやり玉にあげている。彼は、BDAは「伝統的に芸術であった:アナリストはパイロットの報告、爆撃照準機の写真、爆撃後に偵察機が撮影した写真、敵戦線背後から傍受できた情報といった断片をかき集めるのだ」と説明した。しかし何十億ドルも予算をつぎ込んできた監視衛星によって、情報部は「それを科学に変えてしまおうとしていね」

 

「アナリストは偵察機と衛星によって集められた『ハード』な証明に基づく訓練を受けている」と彼は書いた。「だから、もし帰還したパイロットが『目の前でトーチカが炎上したよ』と言っても、彼らはその言葉を信用することはない:パイロットの報告、彼らの主張するところは、いつも誇張されているというわけだ。しかし、彼らが使っている機械にしても、見えるもの全てが真実だというわけではない」

 

ARCENT G-2がBDAの方法論を見直した後も、「CIAだけが異論を唱えた:地上戦の前日、大統領に、我々がイラク軍に与えたという損害は誇大であると注進に及んだ。もし我々がCIAを納得させるまで待っていたら、未だサウジ・アラビアに留まっていただろう」とシュワルツコフは主張している。

 

新しい連邦議会報告書をまとめた者は、この政治的論争においては中道を歩もうとしている:「情報部では、シュワルツコフ将軍は(情報部が)有益な弁護をしなかったことで(情報部に対して)腹を立てていると広く信じられているが、彼が予定していた地上戦開始日と(情報部の考えとの間に)隔たりがあったのである」

 

「これは、もし攻撃が不首尾に終わった時、自分たちは正しい情報を提供したのにシュワルツコフは間違った認識に基づいて行動したのだという予防線を張ろうとしているワシントンにいる人々に対し、シュワルツコフが激怒したと解釈できる……こうしたエピソードから、戦場における不確かな情報戦の世界を垣間見ることができる」

 

後になって明快にわかったのは、正しいBDAなどなかったということだ──しかし、間違いようのない分析もある。報告書は、情報部は「これらの真相究明に数年かけて議論を続けることは間違いない」とまとめている。

 

──Marty Kufus