愛と幻想のチット・システム

文:平野茂

戦争が政治目的達成のための手段であるとは、クラウゼヴッツのあまりに有名な言葉である。権益を巡って国家同士が対立した時、その問題を解決する一手段として、交渉や戦争がある。乱暴な解釈だが、そういうことだろう。
こうして国家の都合によって始められた戦争という枠の中で、軍の指揮官は部隊を率いて、自分に課せられた作戦目標を達成すべく努力する。作戦級シミュレーション・ゲームをプレイする者は多くの場合、この一指揮官の立場として戦争という巨大な舞台劇の壇上に立つこととなる。与えられた役割を演じる中で、多少のアドリブは許されるだろう。それが成功して観客から喝采を浴びるかもしれないし、失敗してブーイングが飛ぶかも知れない。だが、どちらに転んでも物語の行き着く先に変化はない。プレイヤーという一指揮官に与えられたのとは別の場所で、物語は進行し続けているのだから。
バルジの戦いでリエージュを占領すれば、ドイツ軍プレイヤーは大いに満足できるだろう。ミッドウェイ海戦で日本軍をプレイしエンタープライズでも沈めれば、万歳のひとつも叫びたくなるのが人情だ。しかし、その瞬間にどれほどの高揚を得たとしても、その一戦でドイツや日本の運命が変わるわけではない。ゲームをプレイする者の役割は舞台俳優と同様、戦史というドラマの一頁をより華やかに彩るだけのものである。
たとえ主役であっても俳優だけで成立する舞台は存在しない。脚本化から台本を受け取って、彼は初めて壇上に上がることを許される。同様にゲームをプレイする我々に許されるのは、自分がその役を演じればもっと上手くできるはずだという幻想を抱きつつ、ゲームデザイナーが用意した台本を演じることだけだ。 だが他人に与える、即ち商品としての幻想は、幻想であるが故に現実世界と乖離してはならないという制約がある。現実世界と乖離したものが幻想ではないかと思う向きもあるだろうが、そうではない。複雑に絡み合った現実的要素を切り捨て、描きたい一点の現実のみを際立たせることに成功した時、作品としての幻想は価値を持つ。 シミュレーション・ゲームもその例外ではない。
軍隊とは極めて官僚的な組織である。作戦を立案し部隊を指揮するだけが指揮官の仕事ではない。スタッフの編成、部下の掌握、上下からの情報の把握。デスクワークこそが、指揮官の本分のはずだ。そうした側面を切り捨て、「おいしい」ところだけをプレイヤーに与えるシミュレーション・ゲームの構造は既に、一種の幻想のもとに成り立っている。その幻想を用いて指揮官が負うべき決断の苦悩という現実を切り取り、描いたのが作戦級のシミュレーションゲームと言えるだろう。
しかしこれが、ひとつの戦争全体を再現する戦略級ゲームとなると若干、幻想の性質が変わってくる。作戦級であろうと戦略級であろうと、プレイヤーに与えられる戦力には上限があり、勝利条件という形で物語の方向は制限されている。それでも、自らの手で歴史を改変できるかもしれないという幻想はある。ゲームマップの上でではあるが、歴史的事実という定められた運命を覆し、自分が演じる物語の脚本を書く機会が与えられるからだ。そうしたプレイヤーが抱く幻想とゲームが持つ構造を巧みに用いて、歴史の現実を描いた作品が、『ヒトラー帝国の興亡』である。

1989年に初版が発売された本作のシステムの根幹を成すのは、90年代のゲーム界で流行したチット・システム。西側連合国、ドイツ、ソ連、そしてゲームの序盤で脱落するフランスという4つの陣営は各々が2枚の作戦チットを与えられ、これを生産によって購入、ゲームで使用することになる。
ランダムに引かれた1枚の作戦チットに指名された陣営の部隊が移動と戦闘を行う。ドイツ軍はさらに、任意のタイミングで使用可能なブリッツ・チットが与えられる。従って1ターンに作戦を行える最大数はドイツが3回、連合各国は2回と、ドイツ軍は連合軍に対して5割増の行動力を発揮できることになる。ただしドイツ本国を除く西部と東部で戦域が分割されており、そのどちらかでしかドイツ軍は戦闘を行えない。戦争前半においては持ち得る全てを東西いずれかに投入できたドイツ軍もヨーロッパにおける第2戦線の構築を許した瞬間に、戦争の主導権を失い、東西どちらに対応するか、苦しい決断を強いられてしまうというわけだ。
このチット・システムは一般に、部隊が指揮官の思うように動いてくれない様を描こうとする時に有効とされている。このシステムが成功している例として挙げられる殆どの作品が、作戦級ゲームであることがその証左だろう。だが、ここで用いられているチットは部隊運用の困難さを表現するというよりも、よりスケールを大きく取り、戦線全体での戦機の得失を描こうとしたものと解釈した方が良い。例えば対ソ戦の2ターン目に、ドイツ軍が望む形でチットが出なければドイツ軍プレイヤーはそこに、ヒトラーと参謀本部の対立を見ることかできるだろう。逆にドイツ軍に利する形でチットが出れば、ドイツ参謀本部の譲歩、あるいは狼狽し続けるスターリンの姿が、そこにあったということだ。
西側連合軍がフランスへと上陸した際、それに対応するチットが出なければ史実同様、ヒトラーはぐっすりと眠っており、総統を叩き起こす勇気のある者が側にいなかったのだろう。また、ブリッツ・チットをゲームの後半、ドイツ軍が大胆な反撃を行う時に用いれば、ヒトラーを説き伏せるマンシュタインの姿が脳裏に浮かぶはずだ。
こうしてプレイヤーは自身の歴史的知識と想像力の中で、第2次大戦を象徴するエピソードをマップの上に、自由に見出すことができる。 同様のことは、個々の戦闘においても言える。本作のマップはベルリンからパリまで、わずか5ヘクスしかない。しかも1ターンは6カ月を表すのである。このスケールではユニットの動きという視覚によって、機械化された部隊同士が戦う様子を再現することは難しい。だが、どのような手段を用いるにしても、現実に起こった出来事を完全に再構成できるシステムなど存在しないし、その必要もない。マップの上で起こる戦いが、それらしいイメージを伴えば良いのだ。つまり、想像力の喚起である。
戦闘は同一ヘクスに存在する敵味方の部隊間で行われる。戦闘を行うのが歩兵ユニットの場合はユニットの戦闘力と同数のダイスを振り、5ないし6の目をヒットとして数え、両者のヒット数を比較。1ヒット差なら敗北した側の部隊が退却、2ヒット差で壊滅となる。戦闘の主力となる歩兵の戦闘力はドイツ軍が4、連合主要各国が3と若干ドイツ軍が有利であるものの、勝利を確実なものとするほどではない。1ヘクスに存在できるユニットは、タイプの異なるものが各1ユニットとなっており、物理的な意味における戦力の集中は不可能である。
歩兵の戦力差が決定的なものでないとしたら、開戦当初、ドイツ軍の進撃を支えた戦車戦力はどうか。戦車ユニットは戦闘力を持たない代わりとして、自動的に1ヒットを与える。そのため単体で見た時には爆発力を期待できる歩兵の方がまだ頼もしく、戦車はやや、脆弱な存在のようにも思える。少なくとも単独で運用される戦車は、敵の歩兵を足止めする程度の働きしかできないだろう。そして歩兵の生産に要するポイントが1であるのに対し、戦車のそれは2。とても割が合わない。つまり歩兵・戦車共に、単独で運用していては敵に決定打を与えることを期待しにくいのだ。
しかし2ヒット以上の差をつけられて敗北した戦力は全て除去されるため、戦闘では戦車に約束された1ヒットは大きな意味を持つ。こうして歩兵の不確実性を戦車が補い、戦車の脆弱さを歩兵が補うという、戦歩共同のドクトリンが自然と再現されることになる。個性の異なるユニットがスタックし、互いの欠点を補って自分の真価を発揮する様は、対仏戦や対ソ戦初頭のドイツ軍の姿をイメージすることができるだろう。 さらに戦車戦という要素もある。戦闘が発生しているヘクスに敵味方の戦車が同時に存在している場合、両プレイヤーはダイスを振り、相手より小さい目を出したプレイヤーの戦車は失われてしまう。戦車に対抗できるのは戦車という、現実の大原則が説得力を伴って提示されている。ドイツ軍が戦車戦で勝利すれば性能で劣るⅢ号・Ⅳ号戦車が優秀な戦車指揮官の指示を受け、T34を翻弄する場面を見ることができるだろう。逆にソ連軍が勝利すれば、そこにはKV-1という怪物がいたということだ。
さらに戦闘の1ヒットを確実にする要素として指揮官、それに航空支援と海軍の艦砲射撃がある。プレイヤー次第で、それらの組み合わせひとつひとつから歴史上のドラマに思いを馳せることができるだろう。ルールで定められた現実的原則とプレイヤーの想像力の融和によって、様々な状況を再現できる仕掛けが施されているのだ。 なお、旧版からの変更点は主にルールや手順の明確化だが、アメリカ軍の戦車ユニットが2個から4個へと倍増しているのが最大のものか。これでアメリカ軍歩兵は生産力がそれを許せば、全ユニットが戦車ボーナスを受けることが可能になった。イギリス軍の2個戦車ユニットを加えれば、西側連合国は最前線の部隊全てに戦車ボーナスを与えることもできる。この圧力に脅えるドイツ軍が対ソ連用の戦力を引き抜いた結果、広大な東部戦線に隙ができ、大突破が発生するというヒストリカルな展開が旧版と比べ、発生しやすくなっている。

手番がランダムに決定される本作のシステムは一見、プレイする者に様々な可能性を与えてくれるように思える。そう、歴史の事実を覆す可能性……幻想をだ。だが実際には、各陣営に与えられる作戦チットは2枚。もしどちらかに引きが有利に偏ったとしても、その反動は相手にとって有利な引きとなって、直ちに返ってくる。当然である。戦争はやはり、一人の脚本家によって書かれた舞台劇ではないのだ。一方が自分に有利な筋立てを書くことに成功しても、それは敵対する相手という、あまりに現実的な存在によって書き改められてしまう。ゲームも多くの場合、歴史上の展開から大きく逸脱することはないだろう。東部戦線で決定的な事態が発生しないまま連合軍が第2戦線の構築に成功すれば、後は国力に劣るドイツが本国に至るまでの遅滞戦闘を行い、ベルリンがどの陣営の手に帰するかという一点が争われる。そこまでの過程において、両プレイヤーは自分が求める物語を描き、また見出すことができるだろう。しかしシステムによって演出された幻想はまた、システムが定めた現実の原則から逸脱することを許されないのだ。
それでも本作をプレイする者はルールという現実的事務に多くを煩わされることなく、束の間とはいえ魅力的な幻想に酔うことができる。同テーマのタイトルの中でも本作は、我々が歴史に抱く幻想を喚起し、同時に現実を知らしめる力という一点においては傑出していると思われる。確かに現実とは味気ないものだ。しかし現実を無視した幻想もまた、ただ虚しいだけである。『ヒトラー帝国の興亡』はチット・システムという幻想的な言葉で紡がれるる、透徹してリアルな第2次欧州大戦の物語なのである。

商品ページに戻る